散歩をしていた昼下がり、私は小学生くらいの子供に出会った。その子は、ひどく落ち込んでいるようだったけれど、背中に落ちた木陰がより一層、その子の雰囲気を際立たせていた。
子どもに対して、うかつに声を掛ければ不審者扱いもされる昨今、だけど打ち捨てられたようなその子を見捨てることができず、私は声を掛けてしまった。
「どうかしたの?」
その子は私の声に反応して顔を上げる。あどけない顔で、だけど涙がこぼれていて、鼻の下は赤くなっていた。
「友達が、いなくなっちゃった……」
「はぐれちゃったの?」
「ううん。……もう、会えなくなったの。死んじゃったんだって……」
その瞬間、声を掛けてしまったことを後悔したけれど、同時に使命感のようなものが湧いた。
悲しみは自然に立ち直っていくべきものなのかもしれない。だけど、私は昔、落ち込んで一時、友達に励ましてもらったことがある。そのとき、私はとても心強かった。閉じた扉が開かれて、伸ばした手は握ってくれた。
目の前の子供にも、そういうことがしたかった。私はこの子に無関係で、友達でも知り合いでもない、散歩の途中に出会っただけの存在だけど。
「それは、辛かったね。悲しかったね」
でも、なんて声を掛ければいいかわからなかった。友達は、なんて言ってくれたのだったか。思い返してみるけど、言葉は何一つ思い出せなかった。だったら、私が助けてもらったときは、言葉が大事だったのではなかったのかもしれない。いや、違うか。言葉があったから、その後の行動も受け入れられたのは間違いない。ただ、上書きされてしまっただけだ。
「……どうしたら、帰ってきてくれるかな……」
「……それは、難しいね。死んでしまったら、虫も魚も動物も人も、帰ってこれる人はいないんだよ」
「知ってる。……そんなの、当たり前だよ。……だけど、もう一度会いたいんだもん」
それはきっと、誰しもが思うことだ。死んだことなんてなかったことになれば、全てが丸く収まるのだから。否定することはできなかった。
「じゃあ、考えてみようか。どうしたらいいのか、どうしたらまたその子に会えるのか、考えてみよう?」
「……うん」
そして、私たちは語り合った。実現不可能なことを、理解できない考えを、素敵な夢物語を。
その後、私とその子の繋がりは、その子が中学生になるまで続いた。突然、音沙汰がなくなって不安だけど、まだ生きていることは信じられる。
私たちは、死後の世界を否定した。死んだらまた会えるなどとは思わなかった。なぜなら、いつも身近にいるはずだと、そう信じる方が、その人らしいからだ。
私たちは夢物語を披露しあっていたけれど、生者が不安を覚えるように、死者も不安を覚えるはずだ。だから、この世界に留まってくれるはずだ。単純に言えば、幽霊の存在を信じることにした。
私と親友がいつも一緒にいるわけではないように、私とあの子の関係が途切れたように、誰かが誰かを救い続けるということはない。だったら、救いのある想像をしたほうがまだいい。
死後の世界を否定したあの子が、友達と会うために死を選ぶはずがないと、そんな想像だって選べるのだから。